『遥・石垣さだ子歌集』
『遥・石垣さだ子歌集』あとがき
関宿遊学舎館長
石垣 優
母さだ子は、ちょっとした事でも、そこらにある広告の紙などに書き付けておくような癖があった。いま私の手元には、そのような断片の集積が、幾多のファイルや手帳に混じって、一つのダンボール箱にぎっしり詰まっている。四散してしまった物はもっと多いかもしれない。母の歌集をまとめて本にしようというのは、じつは父の発案であり遺言でもあった。母が亡くなって早四年になるが、私は自身の事で忙殺されており、なかなかこれに着手することが出来ないでいた。昨年の秋になって漸くその機会を得た。
母の残した歌は少なく見積もっても三千首はある。若い時のものは多く失われたであろうと思うと残念であるが、とにかくこの中から適当なものを選別するというのは、短歌の素養が殆どない私にとっては至難の技である。いったいどうすればよいか。人に訊くといっても、こんなことをわざわざ親身になって手伝ってくれる暇な人は居ないであろう。しかし、私には記憶がある。とくに母さだ子の晩年については私は誰よりもよく知っている。この記憶とさだ子への敬愛の念は誰にも負けないから、この二つを頼りにして進もうと決めた。
私はダンボール箱のなかに残されたものは一字一句目を通した。例えばこんなのもある。昭和二十二年七月二十二日、馬鈴薯一貫匁 五十五円、胡瓜 五円。日記も、断続しているが、十年分ぐらいあろうか。しばしばあまりに多くの思い出が甦ってきて、それが正しい歌の選択を害するのではないかと恐れもした。数多の歌の調べに浸り、推敲の跡を辿ったりしている内に、この私にも自然歌への興味が湧いてくるものだ。おかげで幾冊かの短歌入門書を読む機縁が与えられた。しかし所詮付け焼刃である。短歌の持つ詩的真実に触れるにはまだ遠い。そして、末代が読んでくれることもあるかもしれないという儚い思いも手伝って、選択した歌はどうしても家族のエピソード的なものが多くなったような気がする。全体として、永い年月に及ぶものであるから、年代順に並べた。これはまた小さな現代史とも言える。参考までに、さだ子の一生を簡単に振り返ってみる。
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さだ子は大正十年八月二日、三重県関町で肥料を商う父保明と母志津のあいだに、三人姉妹の長女として生まれた。石垣家は幕末以来、肥料商(たつみ屋)を営んでいたが、保明の先代である杢米(三代目)には子がなかった。それで杢米は保明と志津を養子として、大正八年に石垣家に迎え入れた。たつみ屋を引き継いだ保明は、当時まだ医学部の学生であった敏夫を、名古屋の石原家から養子として貰いうけた。昭和十年ごろの話である。敏夫とさだ子が婚礼の儀を挙げたのは、戦争前夜の昭和十五年のことである。いま手元にあるさだ子の書き残した日記や歌の一番古いものは、この頃のものである。したがってこの『歌集』が始まるのもここからである。
昭和十六年、太平洋戦争が勃発し、敏夫は軍医として出征、南方に赴く。昭和十九年、妹たづ子の結婚。二十年敗戦、敏夫の帰還。そうして、母さだ子は二人の子を儲ける、長女幸子を二十一年に、長男である私を二十四年に。昭和二十六年は、石垣家にとって、とりわけさだ子にとって大変な年であったと思われる。常日頃たよりにしていた父保明の急逝。夫敏夫のオートバイ事故による足の複雑骨折。末妹みち子の結婚。この三つのことが重なったのである。しかも、この頃、母志津の神経の異常が絶頂に達していたのではないかと思われる。書き残された断片や歌から、そう推定出来る。志津は非常に我の強い、攻撃的な性格の人であった。しかも、善くも悪しくもよく気がつく、地獄耳の人であった。したがって他人の欠点や失敗を素早く見付けることができ、虫の居所が悪いときは、それを徹底的に追求した。その執拗さは異常であり、時には明らかに病気であった。そして、さだ子の性格はといえば、よく言えば大らか、悪く言えば大雑把で、器用に立ち回れない、とにかく世間ずれが出来ない人であった。そして、この二人は一生一つの家で住むことになるのである。志津はそういう娘さだ子にしばしば我慢がならなかった。さだ子は自分の母と和やかに話ができることをどれほど願ったことであろう。そしてまた、できることなら夫と共に逃げ出したいと何度考えたことであろう。悲しみや怒りの歌の殆どは、母との関係から生まれたものである。志津の病的な性格は晩年にいたって和らいではきたものの、さだ子は、ついに生涯、この母と心を通じ合うことができなかった。
昭和二十五年、私の父敏夫は関町の自宅の一部を改装して、医院を開業する。医院は順調にはやって、父は町になくてはならぬ人となった。それだけまた苦労も多かったには違いないが、仕事が生き甲斐となって、この点でとにかく幸せであったろう、と思う。そしてまた、経済的に恵まれることになるが、母さだ子は、田舎町を出ることがなかったためか、あるいは生来そういう人なのか、とてもつましい人であって、お金の上手な使い方をまるで知らなかったのではないかと思われる。たとえば貯金の一部を株で少し増やしてみよう、などという冒険は全く縁がない事と思っていたようだ。と思えば、時にとんでもない買い物をすることもあったが。(この不器用さを私は完全に受け継いでいる)。あるとき母が私に語った言葉を思い出す、「わたしには二人の子供という宝物があるから、他にはなんにも要らない」と。母さだ子は結局そのような人であった。
昭和三十年代・四十年代は、主婦として、看護婦兼事務員として、母として活躍する。ことに三十年代は、まだ二人の子供も小さかったし、とにかく日本全体がそうであったように、〈復興に向けて〉、〈未来をめざし〉、母は母なりに、もっともよく働いた時期であろう。残っている歌の数も最も少ない。
昭和四十一年には新しい歌帖が始まっている。このあたりからめっきり歌の数も増えていて、なにか心機一転の趣がある。四十年代は、専横な振舞の母志津との確執が続いているし、息子(私)の受験での失敗と娘(幸子)の新婚の危機とで心を痛めることもあったが、総体的に、外にも内にも感覚を深めて行くような充実感が歌から感じとれる。
昭和五十年代。日本全体が高度経済成長を遂げ、物質的には空前の豊かさを享受した時代、すなわち欲が欲を生みバブルに向って転落していく端緒をなした時代である。母さだ子にとっても黄金時代であった。名古屋に住む二人の子供には孫ができ、幼児たちは、遊びにきては、おばあちゃん、おばあちゃん、と慕った。幾度かの小旅行に加え、海外旅行にも行くようになる。昭和五十三年初のヨーロッパ旅行は、〈少女のような素朴さを持った〉さだ子にどんなにか新鮮な感動を与えたことであろう。
そして、おそらくこのころから、人に勧められたからであろうが、さだ子は木彫りや謡いも習い始めた。謡いはずっと以前に(三十五年ごろ)近所の或るお爺さんに少しばかり教えてもらったことがあって、その時の謡声はまだ私の耳に残っている。そう言えば、七宝焼きも、一時習っていたことがあるのを思い出したが、それもこの頃のことではなかったろうか。きっと暇があれば、何やかややりたいと思っていたのであろう。何一つとして極めることがなかったものの、記録風の歌は生涯書きつづけたことは、御覧の通りである。そうして短歌というものを多少なりとも勉強し始めたのもこの頃である。さだ子は生方たつゑ・大塚布見子といったプロの歌人に通信添削を受け始めた。(これは最晩年まで続いた。)推敲した跡も、いま私の手元に、この頃からのものが残っている。
ところが、よい事ばかりの時期は続かないものであろうか、昭和五十年代半ば、さだ子が還暦を迎える頃、足関節症が始まるのである。当初は軽いしびれや鈍痛を感じる程度であったが、年を追うごとにそれは強くなっていった。八方手を尽くして治療を受けたものの改善せず、とうとう歩行も覚束なくなり、睡眠も妨げられるに至って、昭和六十二年、大学病院で足関節固定術を受けた。それによって一時的には痛みが軽減したようにも見うけられたが、おそらく無理をすればとても痛かったのであろう、足の運びは非常に緩慢なものとなった。「痛い?」と訊くと、「痛くない」と答えるのが常であったが、母は人が自分を気遣って苦しむことを何より嫌がった人だった。そうして歩行能力は次第に弱まっていった。
昭和六十三年三月、夫敏夫が肺炎を患って入院。幸いにも肺炎は治ったが、基礎疾患の癌が見付かった。この時から、夫が亡くなるまでの四年間、さだ子は看病生活に入った。偶然、老母志津(このとき八十七歳)も昭和六十三年の暮、大腿骨骨折で別の病院に入院するが、さだ子にとっては、これは幸いであった。志津はこの後永く家政婦付きの入院生活をすることになった。
平成四年三月、敏夫逝去。この後も、母は時々は名古屋の私の家に来て滞在することもあったが、住みなれた関の町で、昔ながらの知り合いに支えられて、短歌、謡、書道、詩吟などをぼちぼちと楽しんで生きた。平成七年九月、歩行が思うままならず私の家に住む。
再起の期待むなしく全身の衰弱は進行し、平成八年一月二十七日、家族に見守られながら息をひきとった。享年七十四歳。
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或る人がこんなことを書いていたのを思い出す。人は、生きているあいだは掴み所がなくて何だかよく解らないが、死んでしまうとはっきりと姿をあらわすと。私も今同じ想いをしている。そうして、実を言うと、年月が経つにつれ、かつての人はいよいよ鮮明な姿をとって私の脳裡に浮かんでくる。母の書き残した日記や歌の数々に目を通してみて、私は〈女の一生〉という美しい絵巻物を見たような気持ちがする。
思えば、私の父母のような大正生まれの人は昭和という時代を、通して生きたことになる。昭和というこの時代。わが国の、何時かは知らないが建国以来、もっとも永い、もっとも変化に富んだ一治世下の時代。初めて国を挙げて西欧列強と渡り合った時代、科学技術が生活を被ってしまった時代。・・・それにしても、太平洋戦争というのは何という大きな事態をわが国に引き起こしたことであろう。勝てば官軍、負ければ賊軍とは言え、戦争を境にして世論は余りにも異なった考えを唱えはじめた。冷静な分析を欠き、極端から極端に走る我が国民性の何という哀しさであることか。ここに生じた価値の混乱は平成の世に受け継がれている。
ともあれ、かの世代は昭和という時代を生きた。誰でも、この世に生きるためには、或る時代、或る国の或る地域、或る家に生きねばならない。とすれば、すべての人は、それぞれ独創的な、掛け替えのない生を生きていることになる。母さだ子は、関という過疎化する町で(現在は歴史的保存の町として再興しつつあるが)、保明と志津という名前をもった性格から長女として生まれ、敏夫という名前をもった医師と一緒に昭和という時代を生きた。この歌集は、そういう人が生きたという証しである。ふたたびこの歌集に目を通してみて、私には、或る魂が〈石垣さだ子〉と名付けられた女の役を見事に演じきった、という思いがしきりである。
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次の事も付け加えておこう。昭和五十八年の最後の歌を目にしたとき、私は愕然とした。
栗の皮落葉を焼きし焼却炉
小雪舞ふ畑に白白と佇つ
この畑はわが家の南側にあって、柿・栗・花梨・柚子などが植えてある、家族には馴染み深い畑である。子供たちが小さいときはよく胡瓜や茄子やじゃが芋などを採ったものだ。この畑の中ほどに小さな銀色の焼却炉があった。
この歌は、かの人が知らずにふと漏らした本然の姿なのであろうか。いろんな沢山の落ち葉を焼いてきた。すべての思い出も焼いてしまった。そんな小さな焼却炉が、誰も見ていない小雪舞うなかに、ひとりぽつねんと佇っている。こんなに淋しい風景を私は見たことがない。いや淋しさというものを通り越してしまったものだ。この歌を書かしめた或る〈純粋な孤独〉に触れたと思った。あるいは私が何時も目にしていた謎がぱっと解けたと言ったほうがよいかもしれない。とにかく、三千何首に目を通していて、突然にこのような感動を呼び起こしたのは、この一首であった。
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この、母の残した歌の取捨選択という、じつは私には殆ど不可能な作業は、しかし一方とても楽しいものであったし、私に多くの貴重なものを与えてくれた。母が、生前「自選集」を出さずにいた理由、つまりこの作業を私に託した理由が、今やはっきりと判るのである。
この歌集に触れて、さだ子という人はこんな人であったのか、こんな時代もあった、こんなこともあった、という感慨を持たれた方が一人でも二人でも居てくだされば、これほど嬉しいことはない。
なお、書名を「遥」としたのは、母が生前この字をとても好んでいて、自分の戒名にもこの字を入れておいたほどであったからである。
作成にあって、昔のいろいろなことを教えてくださった、母の妹である那須たづ子叔母・世古みち子叔母、父の弟である花房達夫叔父、歌の選択に関して有益な助言を頂いた谷喜三さん、短歌誌を快く貸して下さった佐野千代乃さん、ほか関町短歌会の皆様方に、感謝の意をここに表します。
平成十二年一月
母上の霊に捧ぐ
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漆山美術館 林 愼治
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